水曜日, 3月 06, 2019

人間と血脈

この世には、色々なタイプの人がいるものだけれど、学生生活や集団活動やお仕事や色々な局面にそれを実感するわけだけれど。

人の想定外の特性を実感するための最適な手段は、結婚生活を長く続けて、結果として、ある日を境に配偶者のご家族の実態並びに苦労の断片に直面することだ、と思えてきた。

配偶者本人は、ある程度は人物の把握はできうるけれど、欠点もあるけど、いい人間だと思うから結婚するわけだが、その周辺(血縁や世間の介入圧力)は、なんだかヤバそう、なんだか生活が暗くて不幸な匂いがする、なんだか自慢しかせーへんけどメタセコイヤ、なんだか嘘とコンプがあるよな、との予感があっても、不安は曖昧模糊なんだ。

永遠に、雲ひとつない青空のように、すべての謎がとけるわけではないし、それを期待したわけでもないのだが。

私の一番の謎というか、興味は、配偶者の子供の頃のお写真だった。

ちゃんとアルバムにも入ってなかったけど、配偶者の小さい頃のお写真を見つけた時は嬉しかった。色々なところに散逸していたけれど、アルバムもあった。

私の友人も同じようなことを言っていた。義母の家から、旦那の子供の頃のアルバムを救い出したから、その家に対して思い残すことはないと。

子供がいたりすると、尚のこと、似ているところとか、比べてみたりしたくなると思うから。

その写真以外にも色々出てきて、レスキューして、私の人生は複雑になってしまった。

DNA鑑定もできない骨の灰の一部が埋まっているにすぎない、お墓もお坊さんも無意味だ。そこに何のメッセージにあるというのだろう?と思うぐらいに、様々なメッセージが出てきた。

amazonでお坊さんを発注して、お葬式の体裁を整える人って、なんて意気地なしで、見栄っ張りなんだろうか?お寺さん、お坊さんとお付き合いがないのだから、お坊さんはなしでいきます!と正々堂々と言えばいいのに。葬式だけ仏教なんて不道徳じゃないのか。(お坊さんの主たる収入源という意味では意味があるのだけれど。)

先祖の思いや苦悩は、遺骨ではなくて、その生きた一瞬のものとして、自筆のお手紙や独白(毒吐く)や告訴(ガオス)に感じとれる。

…田舎流な封建的な目で裏へ廻って仕事をしないでください。…

戦後すぐの訴えの内容と似たり寄ったりの、世間のうっとうしい無責任な介入が現在にはないとは言えないな。

お為ごかしには気をつけなくっちゃ。

手書きの文章には性格がでる。魂の叫びがある。

真面目な人だったんだ。
家を守ろうとして、自分を犠牲にして、一生懸命に闘って生きたのだと思う。
紳士的で攻撃性のない人。頭がいいけれど、温厚だから、人に支配をしてもいいような気にさせてしまうのかもしれない。
悪がはびこる戦後すぐ、爆撃で死ぬことはないけど、無法地帯の人治支配。言った者勝ちみたいな義務と責任を伴わない自由なチャチャ入れエブリデー。

神経質でもあって、ちょっと文章がくどい。

人付き合いにおいて、ズバっとチョイチョイ切れてやればよかったのかもしれない。(怒ることは案外大事。)

顔が似ている、性格は似ているが違う。末裔には、きまじめに思いつめないように、長く生きて欲しいものだ。

代々の顔や外見が似ていることが、私自身に託されたような気がする謎解きや整理や保全のモチベーションにはなるけれど、それは100%正しい判断なのだろうか?

子供に、ダウン症とか、遺伝子疾患があったなら、血を分けた子供でも、先祖と外見は似ない。でも、親子であることには変わりはないから、外見が似ていることにこだわりすぎるのもよろしくない気もする。

外見や才能的な類似か、ただ単なる家系的なものか、義理であっても思いあっていたり、思いあっていることにしなければならない局面も。

何によって、どのように、どの程度、家族の絆を感じるのか?家族は味方であるのかどうか?に、確証などない。

淡々と一歩一歩整理整頓仕分け作業。