かれこれもう10年ぐらいかなぁ、ずっと『痛みを伴う(改革)』というフレーズに気持ちの悪さを感じていた。『痛み』って誰の?そう語る人ご本人の痛みではないところが他人事ですし、その自己陶酔的な『痛み』って何よ?
口内炎の痛み。
破裂したにきびの痛み。
立ち上がったり、座ったりする時、ウンチが出る時の痔の痛み。
シクシク差し込むような胃の痛み。
足の小指を箪笥の角にぶつけた時の痛み。
包丁がすべって指を切った時の痛み。(これはそんなに痛くはないことも。血が出ると気分的に痛いような気にはなるけど。)
改革はですねえ。『恨みを伴う改革』しかないと言いきれるかも。
『痛みを伴う』って言い方が美的で曖昧なのです。改革によって、誰もが速攻で感じる『痛み』などはないのがやり方だ。
悲しく怖いのは、変化がもたらす恨みは、思わぬ形で広範囲に波及するし、恨み主の対象を限定できない。改革している側の主体はさっさと安全なところに高飛びしてしまう。長年の努力を無にされたり、否定されたりした人の恨みは計り知れないと思います。(ワタシも恨んでいるし、恨まれてもいるかもしれない。わからない。)
改革の恨みは後から効いてくるし、痛みと違って消えることがない。
でも嫌なことは忘れて、好きなことに出来うる限りの時間を費やす。
多くを求めない(どれだけだったら多いんでしょうね?)
嫌な人、特に得意げな人、資格と原理主義で飯を食っている人には極力会わない。
政治によってつぶされないニッチで生きる。
それが消極的ですけれど、心に平安を得る方法。
それか改革をする側にまわって、有頂天に正義を叫び続けるとか。
それか決められたことを決められたように創造性を廃して処理するとか。
ワタシには両方とも出来ません。性格的に。
In spite of being masterminded as pains, Changes have brought spite or rather resentments after all.