生前、私の父は、時々、私のことを『くっき・ちゃん』と呼んでました。なんでそんな突拍子もない名前で呼ぶんだろうと不思議だったんですが、子供の頃は今よりも(より)淡々と事態一般を受け止めるタイプだったし、そこに愛があるような気もしたので、勝手に父が私を『くっき・ちゃん』と呼ぶにまかせてました。
父は、私がコトバを発するようになって、すぐ、私自身のことを突然『くっき・ちゃん』と呼ぶようになったと驚いていて、それは『クッキーちゃん』と言おうとしていたんだと理解していたようでした。
近寄ってきては、『くっき・ちゃんねぇ...。』と、時々、思い出したように言ったんだそうな。
でも、くっき・ちゃんはクッキーじゃない。くうきちゃん。空気ちゃん。
私は、この世に生を受けて、最初に出会った大量の空気というものに、質感に、興味を持ったようなんですよね。母曰く、お客さんの煙草の煙をフラフラとした足取りで追いかけて、つかまえようとして、飽くなき格闘を繰り返したらしい。(その頃はむせなかったのかしらん?)
空気以外のお気に入りは豆腐と生卵。豆腐は小さい手で目にも止まらぬ速さでクチャクチャにし、生卵は床に自然落下させて、ぬるぬるを床に塗りつけ続ける。黙々と飽く事がなかったらしい。お塩も好きだったらしい。お塩のビンを延々とふり続け、空っぽになるまで床の上に雪を積もらせる。そこで悪びれず言う。『ママ、もうない』
豆腐、生卵、塩、空気。
それらの中で、空気ちゃんが一番身近で愛すべき不思議ちゃんだったんでしょうねえ。だから、空気ちゃんについて語りたい気持ちだけがあって、何と言ってよいものやら。でも、とりあえず、その名を語る。
昨今のKY(空気読めない)の空気(人の気)ではなくて、私は、私の命を回している空気と中立的な媒質としての空気に心ひかれてた。人の気には、全く興味はなかったようです。今も変わらないような気がします。私でも他人でも、人間は単純すぎても複雑すぎても胡散臭いような。
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空气 ko1ng qi4
空气可以吃但是不能看。
ko1ng qi4 ke3 yi3 chi1 da4n shi4bu4 ne2ng ka4n
空気は食べることはできるが、目に見えない。(空気を)吸うは吃を用いるのね。
中国語で、看は、見るでもあり、読むでもある。
よって、空気を読むことは不可能なの(かもね)。