木曜日, 4月 02, 2009

obje nomado - plugged life or unplugged life?

ジャック・アタリ著『21世紀の歴史』を読んでいる。

この人はどうやってこの本を書いたのかしらん?私は単純に著者の頭脳と知識に驚く。歴史をグローバルに把握していて、すごい頭脳だなあ、ある程度は記憶しつつ、重層的に、地理的に広範囲に、時代ごとに、歴史的なイベントとその相互作用を把握しているのだろうから、凄いとしか、私には言い様がない。

すでに21世紀に突入しているけれど、今後90年がどのように動いていくのか、よくわからないというのが本音です。地球上の各地域において、相対的にマシな地域はあるかもしれないけれど、絶対的な勝ちというものは、まったく想像できない。どこもかしこも、脆弱性と不安定な要素に満ちていて、対外的にも地域の中でも、格差はあるし、奪い合っているし、仲悪いもん。

この本の中には、ノマド(定住しない遊牧的な?トランスナショナルな人間)とオブジェ・ノマド(ネットとかPCとか携帯端末とか)という表現が頻繁に出てくる。

PCと携帯(電話)端末って、どこが遊牧的なのかなあ、と疑問に思うことがある。あくまでも、私にとって、遊牧的な道具ってのは、unpluggedで作動する道具。stand-aloneで機能する道具。stand-aloneでのサバイバルに寄与する道具。

私が強くそのように思うのは、(社会性のない!その点は自信あります!)社会人になった時の新入社員研修で観た映像と説明の印象が強いからかも。海外の市場、特に開発途上国市場に参入する際には、まず、乾電池を売りに行く。送電配電インフラの有無、電気の質の違いを問わないから。

NHKの新日本紀行のテーマが鳴りそうなペルーあたりの山道をアタッシュケースを持った日本人の男性(営業マン)が登っていく映像が心に残っている。富山の薬売りの海外版のような感じがした。(その絵は私が妄想しつつ、頭の中で作り出したのか、本当に見たのか、今となっては定かではないけれど。環境破壊に結びつきそうなXX哲学よりも、ずっとずっとなるほどな光景。乾電池もゴミになるし、処分に困るんだけれど。)

心から自由人でありたい私にとってのobje nomado (遊牧民の持ち物)は乾電池、或いは、乾電池の形のサンヨーエネループ。1年ほど前に、エネループ&携帯電話を太陽光でチャージできるソーラーチャージャーを手に入れて、かなり嬉しい私。(これってお天気しだいで、曇りや雨の日は機能しないんだけれど。)電池不要の『握力式』懐中電灯もお気に入りだ。握って放して握って放してと、握力が続く限りがんばると、懐中電灯は暗闇を照らし続ける。

コンパクトに電気を蓄える。無尽蔵にあるもの(太陽光等)で発電する。何気ない人の動きで電気を起こす。そういうものがあると、少々心は自由人。

つながっていなければ動かない機器、どこでも通信機器を使用することによって、誰かの被支配者になるのは嫌なんだなあ。(とは言っても、世の中そういうものだけれど。)海外にいても、職場からのメールやデータファイルや贔屓のチームの勝敗に一憂する人生って、つまらないなあ。どこが遊牧的なのかしらん。(実はユビキタスってのも、あまり期待できないなあと思っている。)

本当に人類の生存に必要な道具ではないものが進化しすぎていて、あってもなくてもよいものが、無駄に精緻に、壊れやすく、素人に修復不能にできていることが、この世をストレスフルにしているだけなんじゃないかという気が常にしている。 人類の幸せに寄与しない技術。これは、きっと、私が既に頭の固い老人であるからだろうと思うけれど。

acousticのことをunpluggedというけれど、つながっているものに仲介され、無限に複製可能な電子なんとか情報全般には、真の臨場感とか空気感はないと思う。