平和(日本語)は和平(中国語)というように、漢字の並びが逆さまになるコトバは多いのかもしれない。
Toastmasters Clubの中国語訳は演讲会ya3n jia3ng hui4 。
最初見た時は演説会?と思ったのですが、講演をひっくり返したものと思った方がいいのかもしれない。 一般的に日本で講演会と呼ばれるものも、演講会であることが多いようです。
日本語はカタカナがあるから、トーストマスタ-ズクラブという風に、概念や意味において特徴のあるものは、外来語として安易に処理してしまう傾向があります。カタカナで表現するのは、いいことなのか、悪いことなのか、一概には言えないかな。演説会、講演会、どちらにしても、違和感がありますから。
日本語とは、そういうものです。
演讲会は通常の例会は特にオモシロイ。昨日の例会はとても面白かった。感謝。
私にとって、オモシロイとはどういうことかなあと考えてみると、人の話の内容が面白いかどうか、限られた時間の中のスピーチだから、微細な内容までわからないけれど、話を聞くことによって、その場に行ってみたくなったり、本を読んでみたくなったり、世の中の動きを知ることになったり、関心が広がっていくことが楽しい。
話芸ってのも大事なんですが、話芸ってもの、スキルとかテクニックだけでは飽きがきちゃう。オバマ大統領だって、毎回、違うトピックを話さなければならない、切実な現実に直面するわけですし。
何がよいスピーチなのかは、難しい。自己アピールの過ぎる人にも、ひいてしまう。人のスピーチを何度か聴いていると、その人なりのパターンを感じることがあって、どうかな?と思うこともあるけれど、それがその方の持ち味とも言えるし、はじめて聴く人のフレッシュな気持ちになれば、よいスピーチなのかなあと思ったり。先入観は排除すべきでしょうしね。(しかし、現実の、実践における評価、好悪では、先入観は必ずついてまわるけれど。)
スピーチの審査一般は、難しいものでしょうね。賞を与えるとか、優劣をつけることに意味がないかもしれない。それはそれ!これはこれ!ということで。所詮、林檎とグレープフルーツを比べるようなもの。グレープスとグレープフルーツを比べるようなものかも。 グレープスとレーズンを比べることかも。(これがイッチャンやりにくいかも。)
私は人に点数をつける野蛮な仕事には絶対つきたくないと小学生の時から思ってました。先生とか、審査員なんて、絶対ヤダ!(権威に懐疑的な子供。権力嫌いな子供だった。今も成長していない。)
審査の内容に拘るのであれば、賞レースというものには出ないに限る。万人が証人になりえる速さで競えるレースとか、スポーツ関係とか、私が苦手とする数学とか以外では。論理的に突き詰めて答えが一つしかない分野では、公平なレースというものが有り得るのでしょうが、それ以外は、恣意的と言われてもしかたがない結果になります。 スポーツでもシンクロなんかは、実績がものを言う部分もあるような気がして、順位の意味がわからないことも。
ほにゃらら検定一般も検定する側の金儲けの手段というか。検定試験そのものの妥当性はいい加減なものだと思います。
大学等におけるレポートなんかも、著作権は誰にあるのかなあと思いながら、何ゆえ、いけすかない大学教員さん相手に真剣にレポートを出さにゃあいかんのかと思いつつ、私なりに手を抜かずに書いてましたねえ(苦笑)。インターネットからのコピペは、自己中心的な人間による押し付けに対抗する、ある意味正しい対処方法かもしれません。
スピーチは賞を取るためのものではなくて、人に伝え、人から伝えらるための手段だと私は思うし、その内容が面白いことが大事。本音の部分では、私にとっては、ただそれだけです。