水曜日, 12月 24, 2008

荒野(あらの)の果てに

今日はクリスマス・イブ。昨日は天皇誕生日。2日程遅れて、天皇陛下が12月25日に生まれていたら、どうなったものかと…。

私はクリスチャンではないというか、教会に行くのは面倒だし、洗礼を受けているわけでもなんでもないのですが、幼稚園がカトリックだったんで、その頃覚えた歌(賛美歌)を忘れないんですよねえ。コトバとか言い回しとかも。

クリスマスの頃=年の瀬、の夕刻の渋滞。自動車が連なって、ノロノロしていて、赤いブレーキランプや白のヘッドライトが歩行者の目をさすような、寒くてイライラした風景に出くわすと、必ず口ずさんでしまう。

♪その1:主よぉ!主よぉぉぉぉ!御民を救わせさたまぁぁぁえやぁぁぁ~。(ひさしくまちにし)
♪その2:荒野(あらの)の果てに夕日は落ちて、妙なる調べ、天より響く。グローおぉぉぉぉ、おぉぉぉぉ、おぉぉぉぉぉりあ、インネクセルシスデーオ…♪(荒野(あらの)の果てに)

聞いたまんまのウロ覚えなんで、間違っているかも。でも、なぜなんでしょうねえ。風の音かもしれないように、寒気の隙間に薄く高く低くたなびくリボンを吐くように、すれ違った人が幻聴のように聞こえるように、私は歌う。歌わずにはいられない。

♪荒野の果てに♪ 理論的にではなくて、誰もが目で地球儀や映像を観ているから、地球は丸くつながっていて、荒野の果てには何らかの地面か海か川か湖があることを知っている。通信と交通とマネーと物流と人の往来で、どうしようもなくつながっている。現代には、イエス・キリストが誕生した時のような荒野のような、荒廃も絶望もあるけれど、荒野(あらの)の果てはもはやない。

荒野の果てに行けなくても、荒野に果てがあると信じることができれば、この世は少し生き易い場所になるんじゃないかと思ったりする。現代人は、その点において不幸だ。果てがないことをすっかり知ってしまったから。(だって地球は丸いんだもん!)

アマゾンの森で採集生活をしていた民が森を追われて、都市で現金収入を得て暮らしていけないように。自殺者が増えちゃうように。他者と交流することは、当然、競合することにつながる。良いことばかりじゃない。価値観の押し付けになっちゃいますしねえ。(人が死んでから、丁重なお悔やみを言うことには、偽善のほかに何の意味もない。)

この年の瀬にお金を支払って縁が切れたものもある。荒野の果てに捨てたに少し近い感覚。でも、やはり、この世という荒野には果てがないのだから、ひょっこりどこかでご縁を目にしちゃうかもしれないし、誰かが影で糸を引いているのかもしれない。それはそれでしかたがない。

最近は、人と知り合いになった瞬間の正の期待感以上に、ご縁が切れた時の安堵感の方が大きかったりする。それは、人と知り合いになった瞬間に感じる負の期待感の裏返し。ほとんど悪い方の予感があたってしまう。それでも、荒野を電飾の夜に変えつつ2008年の夕日は落ちて、荒野にまた2009年の朝日は昇る。

お年賀は出す人には出すのでしょう。出せる範囲で。つながっていたい(かもしれない)相手には。それは荒野に果てがないからかも。

一蓮托生…?極楽の蓮の花の上ではなくて、荒野托生だからかも。

2009年のモットーは可能な限りのヒッキー。一人の時間をより大事にする。読む、手で書く、声にだす、考える。あまり食べない。水分を摂取する。運動をする。歌を歌う。踊る。アイロンをかける。裁断する。ミシンをかける。要するに、リメイクする。