木曜日, 9月 06, 2007

★Sentimental Economics

経済学って聞くと、私は泣きそうになる。泣かないまでも胸がつまってしまうんだ。

(だから、そんな話題は、私にふらないでね。理由は私にも上手に説明できないんだけれど、学費は、私の中では人生の特別損失として処理しましたんで、なかったものとしてください。受け取った金額(ゼロ)よりも支払った金額の方が多いので、経済学には私は何の義務も負いませんので。私のせいで、XXXゼミの友達から年賀状が来なくなった。そんなん知るかよ!というか、私はもともと無関係なんです。)

どちらかと言えば、国費で勉強して、すき放題(?)やっている人達を責めてください。(そういう輩にはよう言わんくせにサ!)誰もが、ちょっと席をはずしている間に、「えぇぇっ???」という感じで事態一般が変わっていたり、席にいても、裏で変わっていたりしたんだろうねえ。

外からノコノコと、色々な会社に疲れた人が新天地を求めて、意気揚々とやってきて、行政に利用されたりしてるんだろうなあ。(持ちつ持たれつでやってんだろうなあ。)

行政の大失策、人工島にマンションを建てさせ、無理やり売るために、よい小学校を公費で建てる。(私立よりもダーティーじゃないか。)

そこに勤める教員は、やれモデル校(何とか特区)だぁ!とか、偉そうに学会発表なんかするんだろうなあ。そこに住むのは3500万円のマンションを買う余裕のある家庭でなくっちゃならないから、均質的なお子さんが集まるはず。(公費でやるってところが、私立よりもダーティーじゃないか。)

青果市場も移転するらしい。輸入野菜が増えそうね。農薬検査はきっちりしてね。

感傷経済学なんてものはないんだろうけれど、感傷はヒトを生産的な活動に向わせるかといえば、NO!だろうねえ。環境負荷を与えない生産活動は、ほとんどないわけだから、感傷的な気分で、部分的なヒッキーでいることは、生産性は落ちるけど、地球環境には優しいかもしれないなあ。

9月4日の日経の朝刊29面の経済教室に元宇宙飛行士の毛利さんの「経済学を語る」異分野の視点というのを書いていた。「合理的個人」を前提としている限り、経済学は未だに天動説だとあった。

言わんとすることはわかるような気がするんだけれど。私は天→神→何らかの倫理的な行いと考えると、表面的な経済学、経営学が、倫(みち)に外れているような気がするから、切ないんだなあ。地が回っているか、天が回っているか、ではなくて、経済理論や企業経営がこの世を無理やり回していて、不幸に落としいれている部分が侮れない。

経済学のコンテキストに出てくる「合理的個人」「完全情報」「政府の失敗」「市場の失敗」「完全市場」「資源配分の効率性」オエっ!となる言葉ばっかりだ。

もう一つきらいな表現が「あれかこれか」。

そんな悠長な、個人の欲望の最大化を是認するようなことを言っていていいのかな。個人が大海の1滴であるかのごとくの例え話をしてていいのかしら。

競合性排除性のないところにマーケットは存在しない。それは、マーケットを介さない随意契約に、より強い排除性があることを否定するものではない。まさしく、この世的なドロドロした欲望の世界であって、地でも天でもないわ。(いわゆる特定の現人神の声=天の声?はあるのね。)

...パラダイムを大転換するような人類生き残りをかけるとの大命題を抱える社会状況はすでに存在する。...とある。

そうなんだ。そうなんだヨ。

 私にとって経済学は価値があるとも、くだらないとも、判断できないままに、居場所を失ったもの。経営に寄り切られちゃったもの。

それが「合理的個人の典型」であろうビジネスパーソンズ集団に置き換えられるかといえば、以前は建前の陰に潜んでいた功利色が、表舞台で是認されるだけで、パラダイムはシフトしない。

jijiちゃんの孤独な(?)センチメンタルジャーニーは永遠に続く。

個々人が合理的 (rational)であることと倫理的であること。全体最適であるかは全く別問題。