木曜日, 3月 22, 2007

★To know what i do not take comfortably

私は、昔から(生まれた時からかもしれませんが)勝つためのグチャグチャした競争が嫌いでした。

あいているブランコに乗ろうとして、駆け寄っていく最中に、後ろから誰かが走ってくる気配を感じただけで、クルっと引き返して、ブランコをあきらめるような、争いを極端に好まない子供であったと自分でも記憶しているし、よく母に怒られたというか、情けながられた。なんで、アンタの方が先に走っているのにぃ、譲ることないのにぃ?!と。

優しいんじゃないんだなあ、人を押しのけてまで、乗りたいわけじゃないし。それだけ。

未だにグチャグチャした争いとか取り合いには参戦しないタイプ。グチャグチャと脚を梳(くしけず)るサッカーは好きになれず(一応応援はしますけれど)、それぞれの定位置(陣地)が決まっていて、ほとんど非接触で闘う、野球(ピッチャー)とか、テニスとかの方がずっと好きだ。

徹底的に闘うのであれば、素手で殴りあうボクシングが好き。相手との距離の取り方、引き方  と、ほぼ一発でしとめるアートが好きだ。

■競合性・排除性のないところにマーケットは存在しない?

最初、そう聞いた時には、なるほど、と関心した。今も市場って、そういう残忍な一面もあるよね、と思うけれど。

どちらかと言えば、競合をさける為の独占による排除、お役人であるとか、資格の保持者の集団であるとか、権威であるとか、そのあたりの方が、価格をシグナルとして排除を行う市場よりも、ずっとずっと排除性が強固で粘着力がある。

陳腐な経済学的な流れで語ってしまうと、価格をシグナルとして、なんだけれど、価格がシグナルなのかな?感性であったり、好み(好き嫌い)で買う・買わないは判断されることも非常に多い。マーケットは、マルチなファクターを飲み込んでいて、恣意性が少ない。

お役人がコントロールしている公共というものに参入するには、お役人に気に入られなければならないし、模範的な市民の”ようで”なきゃならない。非常に恣意的な世界だと思う。(私は、そうありたいわけじゃない。)なんとか契約、随意契約か。

価格をシグナルとしてだけじゃいけない、質も大事だという考え方はあるけれど、公共入札は、まさしく受注金額の低いこと、低価格をシグナルとして決定される。将来に渡るメンテナンスコストの(低さの)検証とか安全性等の質を評価する人員も能力も不十分だし、公平な入札であることをアピールするためにも、低価格であることで、他社を排除するしかないのだ。

公共のニーズは増大すれど、そのための予算は財政赤字ゆえに縮小傾向にあるし、パイの取り合いは激しさを増している。縮小するパイを分け合う・奪い合うということそのものにより、更により強い排除性が生じる。

行政さんと協働して、税金を原資とする公共を担って、業績アップってのは、ちょっとねえ、罪悪感があるし、業績アップそのものが、ありそうに思えない。

これは業者や市民としての受注者という観点からの話しであって、受益者への関与という点では、行政と民間企業は異なる。行政さんの方が、排除性はないでしょう。義務教育における公立小学校VS私立小学校であれば、公立小は全ての子供を受け入れるわけですから。

縮小するパイの中で、どのような使途に資金を振り向けるべきかを考えることは、最重要ではある。それには関心を持とうと思う。しかし、何に使うことが最適なのかを証明し、人々に納得してもらうのは、時間がかかるし、至難の業だ。

JIJIちゃんは、とりあえず、ほんの数ミリでも、新しい陣地を拡げて、そこで闘いを挑みたい。少ない資源を取り合うのではなくて、新たに市場(新たな商品)自ら作る。

そっちの方が精神衛生上もいいし、恐らく、これが私の性格に一番合った社会との関わり方だろう。

嫌いなもの、苦手なものを確認する為に、私は、大学に行ったんだろうと思う。それでよかったんだと思う。

今のところ、民間企業の方は、率直に接してくだされるし、話がし易い。うん百万の投資は安くはないけれど、子供を東京の私立大学に入学・通学させる為の費用モロモロ、初年度約300万円強と比べれば、全然たいしたことがないとも言える。

子供は子供の意思や意思の弱さで、300万円をドブに捨ててくれるかもしれない。300万円以上のリターンを親にというよりも、自らに、社会にもたらしてくれるかもしれない。リスクに比例したリターンの変動、(大きい、小さい、ない、特別損失発生である可能性)は、ビジネスの比ではないのだ。(親が注ぐのは無償の愛であったとしても、ビジネスと子供を比較することが間違っているような気もするけれど。)

ビビることはない。たいしたことないわ。大胆に前向きに行こう!