ある小部屋の壁に30年以上に渡って、1983年4月のカレンダーの裏紙に、マジックで聖書の一節(2箇所)を記したものが押しピンで留めてあった。
サビるタイプの金属のメタルのレトロ押しピンで。
筆跡から、その聖書の一節を書いた人は特定できる。
しかし、
なんでそこに貼ってあったんだろうか?
誰に向けて、誰のために、それを書き写して貼ったのだろうか?
自らを鼓舞するためでもあっただろう。
その小部屋を使っていた自らの子をも鼓舞するためだったのだろうか?
その聖書の一節は、惰性で貼ってあっただけなのだろうか?その子を適切に鼓舞できたのだろうか?重荷にはならなかったのだろうか?どちらかと言えば、道を誤まらせたのではないか?実は、その子には意欲もビジョンもなかったのに、思い込みの聖戦に巻き込んじゃったんじゃないの?
しかし、とにかく、
その手書きの文字が、整って真剣に書かれていて、真に迫っている感じがしたから、取り置いて、額装してしまった。
妄想では泣かないけれど、もしかしたら、そうだったのかもしれない、という類推が深まってしまい、涙で胸が詰まりそうだったから、その聖書の一節が額装されるまでお店で見ていることができなかった。うっかり泣いてしまうと、それを見た人が困惑してしまうから。
迫害を受けているとか、現世での幸せが有り得ないのなら、恐れるな!神が平安を与えてくださる的なことは、あの世を想定して、理解はできるのだけれど、ちょっと人生の目標を変えるだけで、いくらでも現世で幸せになれそうな能力と贅沢を言わなければ生きていける可能性もあるとしたら、
神が与えてくれるから、世間の評価はどうあれ、やり続けろ!偉い!偉い!偉い!は、現世での呪縛に過ぎない。
偉い!などと無責任なことを言うより、アホ!他のことを気楽にやった方がええんちゃうんか?と言ってやった方が、優しいことだってある。
世間はうっとおしいものですが、神がともにあることが一番で、世間はどうでもいいよ、という信念は、なかなかに頑固で排他的に写る。
もう、ヤダ!クリスチャンの反省お祈りポーズみたいな感じで、頑固に黙らはるんやから!ということになるかもしれない。
世間が、世の人が、間違っていたり、邪悪とまではいかなくても、無責任で好奇心ギラギラでズケズケしいことも確かだけれど。
神対応なんて表現が流行りだけれど、人は神ではないし、人に神の手は見えない。ある程度は、自らのつたない理性を修正しながら、自らの理性にすがって生きていかなくっちゃ。
同じ文言を読んでも、解釈も、行動も、結果も、人それぞれ。
平常心是道。お食事をしたら食器を洗おう。
結果、なるようにしかならないし、それが神の対応なんだろう。