日曜日, 4月 08, 2018

人間なんて…&なんて人間!

4月1日に太陽の塔の内臓を見た。
実のところ、先行予約に出遅れ、行けそうな日で予約に空きがある日が4月1日だった。4月1日はエイプリルフールで、年度の始めの日で、日曜日で、桜が満開で、結果的に、申し分なくGOODなタイミングだったと思う。

エイプリルフールだし、太陽の塔の足元で、フーリッシュなことをしようと思った。

太陽の塔のペイントのような色合いでもあり、70年代風のような、千里セルシーの閉店セールで買った朱赤のコートを着て、道具屋筋で買った寸胴鍋用の鍋蓋と、なぜか蔵の2階の床に落ちていたEXPO70のコースター2個を持っていって、寸胴鍋の蓋の取っ手を口にくわえて、コースターを目に見立てて旦那に写真を撮ってもらった。実在しないのだもの、太陽の塔の第五の顔だったら、何でもありだ。近未来的なロボットのようなコンパニオンも目指してみた。

旦那に写真を撮ってもらうのは、大変なんだ。いつも無言で、アクションがないから、いつシャッターを押しているのかわかんないし、画角に関しては全くアイデアがないみたいだから、的確に、どう絵を切り取って欲しいのか、ご説明して、同じポージングをキープしないといけない。露出が長時間必要なピンホールカメラで撮られている感じだ。体幹が強いわけじゃないけれど、体幹を鍛えるイメージで、たたずんでいる私のどこかの一瞬が切り取られている。

手で持っていた左右の目の位置の角度がずれていても、彼は何も教えてくれない。彼には、ずれているという認識がないし、私が何がベストだと思っているのかなんて、イノセントな彼には、伝わりようがないから、私があわせないといけない。でも、何回か切れてしまった。撮れた画像を見て、貴方、何がやりたいの、これ!って言っちゃった。(やりたいのは私だけなのになあ。つきあわせてしまって、ごめんなさい。)

そんなこんなで、見学できる時間が到来して、生命の木とご対面。おぉぉぉぉぉぉぉ。

様々な生命体の最上位にいたホモサピエンス?ネアンデルタール人?の小ささに歓喜してしまった私に、私の裏切り者ぶりに、我ながらビックリした。

思わず、わぁぁぁあ、人類ちっちゃーい!と声に出して言ってしまい、心の中で「ざまあみろ!」と吼えていた。(自分だって人類のくせに、なんだよ私。)

でも、その人類の小ささには救われるんだ。私の悩み、わだかまり、失敗、愚かさ、イケテナサ、焦燥感、地位の低さ、などは、更に更に小さいものだから。究極的には、頑張らなくてもいいんじゃないの?と思える、人の世のモラルハザードに近づいていくことへの心強さがある。

再生された太陽の塔の内部が素晴らしいのは、1970年の方が、今以上にトテツモナイ驚きであったことだ。それが50年近く前にあったということだ。耐震性の観点から、2018年には、重量があるエスカレーターではなくて、階段に付け替えられているし、青く光るお祭り広場の屋根の上に続いていた両手の大きさに度肝を抜かれたけれど、1970年には、そこにエスカレーターが設置されていたらしいから。えぇぇぇぇぇ、ホンマけ?
今でも凄いけど、過去の方が今より凄かったというのは、驚異的だ。

生命の木のかなり上に設置されているゴリラ?は、メカニカルに動いていたというし。CGがなくても、AIがなくても、神が創りし天然の造形でなくても、凄い人工物は凄い。

私は、太陽の塔がなぜ好きなのか?説明ができない。

昔、太陽の塔の目に立てこもった人がいて、それによって太陽の塔の大きさを実感したからかもしれない。
向かいにお家ができるまで、実家の私の部屋から、太陽の塔の後姿を見ることができたから、存在が刷り込まれたのか?岡本太郎のキャラクターに圧倒されたからか?よくわからない。

とにかく私は、太陽の塔を自らのお墓というか、この世に帰ってきたいと思った時の目印にしようと思った。現世では、あの目の中にたてこもる手段も勇気もないし、私は、死後は無縁の焼却灰でハッピーだから。恐らく、私の焼却灰には、私の霊魂などないような気がしている。儚く、墓なく。

太陽の塔の目の中にたてこもった人は、今、生きているのだろうか?
目の中まで、どうやって上ったのか、なぜ上ったのか、寒いのか、暑いのか、揺れるのか、どのように排泄していたのか、どんな景色だったのか?とても興味がある。

この世における目印として、お金をお支払いして、名前を刻んでもらおうかな、と思った。そのお金は、私にしてみれば大金だけれど、総工費にしてみれば微々たるもの。私のイメージとしては、名前は、小さくて、雑多な人々の名前にまぎれて、双眼鏡がなければ探せないことを想定していたのに、うっそー!と思うぐらいに探しやすかった。その点は、思ってたんとチャイコフスキー。

そして、SJに思った。

えぇぇぇ?なんでやねん?まず公的なレスキュー隊に全額費用弁済するのが筋ではないのだろうか?と。
とてつもない芸術は、この世的な雑多な倫理観を超越して寛容なのでしょうし、名前を残したいなどと思ったセコイ私に、やはり名前があって嬉しかった私に、人をどうこう言うような清らかさなどないわけで。