火曜日, 12月 02, 2014

騙されてもいい(?)から、というヒトの感覚

小説「後妻業」を読み終えた。面白かった。

ある男のヒトにとっての、重婚とか愛人という意味ではなくて、2番目、3番目の奥さんという意味の「後妻一般」と「後妻業」は違う。当然、普通の後妻さんが悪いわけじゃないし、後妻じゃない妻にだって、当然、悪いやつはいる。(私はどうかな?)

明らかに高齢者の遺産目当てで、高齢の一人暮らしの資産家男性と結婚して、毒を盛って殺したり、連れ出して仲間と共謀して事故死に見せかけて殺したり、身体に悪い食べ物を与えて健康を害させて死期を早めさせたりする年配の女(ババア)。老人(ジジイ)の財産にたかる後妻業。後妻になっては、次々と旦那が死んで、資産をせしめて、次々と姓が変わる。話題の京都府向日市の事件のように(?)。

この小説の中の、手口も面白かったが、最後のどんでん返しも良かった。実際の地名とか架空の固有名詞がリアルだった。(ぶっちゃけ結婚紹介所と公証人が汚い。実際はどうなの?)

作者黒川博行氏が、聞いた話から、9割方実話ベースで書いたと言っていたようだけれど、どうなんだろうなあ?

やっぱり、(心の距離が)遠くの家族に資産を残す気はない。騙されてるのはうすうすわかっているけれど、近くの老悪女をゲットするんじゃ!と思う老人もいるんだろうなあ。

騙されていることがわかっていても、殺されることがわかっていても、最終晩年を、男は一人で終えることができないのかなあ、お金ででも女を釣りたいものなのだろうか?お金や資産を持って死ねないわけだから。(殺されたジジイの本音の声が聞きたい。)

この小説の中の、実の娘と老父親の間の関係性の希薄さ、希薄なのに、死にかけのお父さんに向かって、お父さん頑張って的に最期にお声かけをしている様に、「人間って所詮ひとり」という「部分も大」なのかな、という気がしたりもした。

この小説の中では、実の娘さんはお父さんに金銭的に頼る必要はなくて、姉妹仲が極端に悪いわけでもない。血を分け合った者同士だって、わかりあえたり、なじみあえたり、してないことは多いのだろう。

もし、グータラな、幾つになっても、お金をたかるような実の子供だったら、後妻業にたかられることはなかったのではないかなあ?(子から親へのお金の無心は、ある意味、よい行為、よい接点かも。)

悪女も怖いけど、人生の末期になったら、家族もあてにはならない。病院に入れられたって、薬と酸素と輸液でコントロールされるだけではないか。看護婦さんの心労と疲弊は実感として理解できるけれど、病院は、臭くて、建前の倫理にしばられる、扱いの難しい、クレームも発生しがちな、費用対効果の薄い植物工場。

仕事の体力的なキツさに加えて、そういう虚しさで看護の仕事を辞めたい人もいるんじゃないかな。

私、野垂れ死にしたいんですけど、ダメでしょうか?

人間にとって、無関心にされる程、悲しいことはないのかも。資産にでも関心を持ってもらったら、無関心にされるよりはマシなのかも。

この小説の中では、お金で買っているものの中で、私には、ステキ!と思えるものが何もなかった。リフォームしたり、新築したりするお家の描写にしても、そんなもんいらんでぇ~、という感じだ。

お金じゃんじゃんグルグル、アベノミスクよりも、お家で、天然材料グルグルしてミックスジュースでも。

冬はホットでホッとしたいんだよ。ただそれだけ。