土曜日, 11月 21, 2009

dyslexia, autism, and so on.

dislexiaに関しても、autismに関しても、まったく詳しくないので、ふと心によぎったことを備忘録的に書こうとしているだけです。

知能も高いし、会話はできるのに、文字を読めなかったり、書いたものを理解できない人がいる。それをディスレクシア (Dyslexia)と呼ぶようです。日本語では、読字障害。

autismは日本では自閉症と呼ばれるけれど、心を閉ざしているとか、落ち込んでいるとか、引きこもっているという意味ではない。対人コミュニケーションが正常に行われない障害、自己主張ができなかったり、それが病的に過激になったり、不寛容に見えたり、人が言うことを理解できなかったり、過度な反応を示したり等々。

双方とも、コトバによるコミュニケーションに支障がでることが多いようです。

なぜか?(私にはわかりません。)

今、『ビヨンド・エジソン 12人の博士が見つめる未来』 最相葉月著 ポプラ社 の 第6章 言葉の不思議を探求する、というところを読み終えた。

autism(自閉症)の人と人間が作った音声認識装置は、似たような振る舞いをするそうだ。絶対的な物理量に反応することしかできない。ある限られた範囲の量でなければ、同一であると認識できないという点で似ているのだろうと思います。

この章の中で面白かったのは、dyslexia(読字障害)は英語圏に多いらしいこと。発音と綴りの間に比較的シンプルな対応が成り立つイタリア語等には少ないらしい。漢字圏にも少ないらしい。英語は母音の数も多いし、つづりと発音に明確な対応関係が見出しにくいので、読字障害が出やすいらしい。

今、かなり手探りで中国語の習得を目指しているのだけれど、中国語は読む=readが黙読と音読では異なる字で表現される。黙読は看、音読は念。言語習得には音読=念が有効だと思う。

大人になってから外国語を学ぶ場合、理屈で体系的に文法ベースで習得しようとすべきなのでしょうけれど、私は、野生的に身体感覚と恐怖心で覚えようとする傾向がある。

正確にピンインを覚えていない、ほとんど正確にピンインと声調が書けないかも。試験を受ける場合は、それでは問題があるのですが、トータルのおぼろげな音像で認識していたり、認識できなかったりを繰り返している。これじゃあ通じないなあと思うポイントを正確に表現しようと努める。

中文ワープロを打つには、ピンインが必要なのですが、声調を知らなくても変換の候補が出てくるし、中文ワープロが打てること=発話できるわけでもない。

少々、発音と声調が不正確でも、私にとっては、中国語の習得には、多く聴く、多く声に出して発話する、写経のように手で書き写す、の3点セットのような気がしている。 その全て(聞き取る、発話する、センテンスを書く)が出来なければ、コトバが意味を内包しないと思うから。

私は絶対音感とか絶対◎◎というようなピンポイントな認識をしないタイプのような気がする。相対的と言うべきか、変化パターンみたいなものを瞬間瞬間に画像=ほぼ意味に変換して認識しているような気がします。どちらかと言えば、ざっと大づかみをしてから、細部を修正する。世の中には細部から入る人が多そうな気がするけれど、私は単なるめんどくさがりやだ。

私は正常と異常のどちらに属するのか良くわかりませんが。正常と呼ばれる範囲の中でも、絶対度が優位の人と相対度が優位の人がいるんじゃないかな、という気がしました。自分の特性を感じ取って、自らを卑下せず、勉強方法は自らやりやすい方法を選ぶことが大事かもしれません。