日曜日, 3月 26, 2006

★giving island

私の原風景

①某市の市営団地
②奈良県吉野郡東吉野村の田舎
③与島じゃなかった余島

①今風に言えば、幼稚園のお受験のために、母に覚えさせられた家の住所を未だに覚えている。せっかく覚えたし、住所を言いたくてしかたがなかったのに、誰も聞いてくれなかったから、無駄な努力をさせた母に、怒った記憶がある。合格とか不合格の意味すらわかっていなかったし、その幼稚園というか、幼稚園そのものに行きたいわけでもなかったから、どうも、合格通知が来てからも、私は、その無念を思い出しては、怒り続けていたらしい。

母に言わせると、私が幼稚園に受かったのは、母の力。親への作文の課題は『民主主義とは何か』を書けというものだったらしい。凄く大仰な論述課題だと思う。

団地の生活は、皆で団地の敷地を適当に区分けして、園芸をしたり、子供もたくさんいて、フランス刺繍が恐ろしく上手なおばさんがいて、ブランコも滑り台もあって、子供にとっては、一軒家よりも楽しい暮らしだった。

私が今でもデータプロジェクターでDVDを観るのがすきなのは、子ども会の映画上映会で、団地の側面の壁におそまつくんとか映画を映写していたからかも。郷愁を感じるのでしょうねえ。そのワクワク感に比べたら、プラズマTVのどこがいいのか、よくわからない。

②この世のパラダイス。事情があって行っては行けないようなので、思い出はマスマス美しい。家の前の川を挟んで、杉林もある小高い『ヅキヤマ』という名前の山があって、細い登山道のような道(間違っても車は入れない)が続いている。途中にお家が一軒あって、その道をテクテクあるいて山を登っていくと赤ずきんちゃんになったような気がした。頂上だけが、丸く、芝生が植わっていて、今から思うと、道の管理と頂上の芝生の管理は、誰が、どうしていたのかしら?結構に大変な労力だったろうと思いますねえ。
お盆に帰省すると、当然盆踊りがあって、どういうわけか、炭鉱節がメインだったように記憶している。お月様に気を使うなんて、なんて奥ゆかしい歌なんだろう、『タンコブシ』って、どんな意味なんだろうかと不思議に思っていた。

③私の記憶の中では無人島。電気とガスはなくて、木造のコテージが点々とあって、ランプ生活。キッチンとお食事をするホールのようなところが自家発電になっていたと思う。大学生のリーダーがお食事を作ってくれた。美味しかったように思う。朝は食パン&蜂蜜&バター。夜になるとランプの明かりだけで、眠るんだけど、同室の小学生の女の子達が、いきなり、『愛と恋とはどうちがうの?』とか言い出したことを覚えている。私は、愛は人に向い、恋は自分に向う、方向が違うんじゃないかな、と思っていたけれど、そんなドライなことを言ったらシラケちゃうから、黙って、シアワセな思いで、そのヒソヒソ話を聴いていました。

その島は『ヨシマ』という。私は瀬戸大橋の与島パーキングエリアのある与島だと思っていて、橋桁の島になってしまったことをずいぶんと落胆し、三ルートもかかってしまった本四架橋を恨んだ。(今も恨んでいるけれど。とてもアグリーだ。)『ヨシマ』にあった木造のコテージも何もかもなくなってしまったんだと。瀬戸大橋を渡って、与島パーキングエリアで休憩した時も、こんな島だったかしらねえ?とため息をついて、その使われもしないグルグルと回りながら橋から下る道、まるで、死にかけた人体の延命に用いるチューブのような感じに思えて悲しかった。

しかし、しかし、『ヨシマ』って、もう一つあったんだなあ。『余島』と書く。
10÷3=3...(余る)1、みたいに一つ、余っていた島。よかった。子供の頃に行った無人島はそっちの方でしたねえ。良かった。本当に良かった。

♪人は誰もタダ~一人~、旅に出~て、人は誰も人生を振り返~る、帰っておいでよと、振り返っても~、そこには、タダ~風が吹いているだ~け~♪ by 北山修

なぜか、色々と、よく歌いましたねえ。とても会いたかったのに。
この際、とことん突き詰めて考えて、ノイローゼになってやる、と決意を新たにしている。そうすれば、彼に会えるからもしれないから。
まずは、余島に行ってみよう。ずいぶん整備されたみたいな感じがするけれど、島は昔のままにそこにある。