スティーブン・スピルバーグ監督「ミュンヘン」を観た。★★★★★(文句なし)
ミュンヘン・オリンピックのリアルタイムの記憶は少々あります。年齢がばれるので、言いたくはないけれど、既に小学生だったんだなあ。悲惨な銃撃戦の記憶がないのは、親が見せなかったのかもしれない。ただ、マーク・スピッツという自由形で金メダルを取った選手がユダヤ系アメリカ人で、危害を加えられるといけないので、早々に帰国したと記憶している。その時に、ユダヤ民族であるってことは、命を狙われるような大変なことなのねと感じたような気がする。
今、再度、考えると、建国を勝ち得たイスラエル、流浪の民のままのパレスチナ、中途半端に介入しユダヤ人を擁護した英米欧、戦前戦中にユダヤ人を迫害したドイツ、複雑に絡み合っている。
ほんの少しだけ、自らの体験と若干重なる部分もあったような気もする。是が非でも自らの国を持ちたいパレスチナ人の執念のような思いはわかるような気がする。20歳の頃、UCLAのキャンパスで(在学していたのではなくて、旅行中に通りすがりという意味です。議員にもなんないし、学歴詐称なんてしませんので、念為。)雑談をしたレバノン人の学生さんは、JIJIちゃんが日本人で祖国があるというだけで、この上なくうらやましいことだと言った。イスラエルが侵攻して、ベイルートは戦闘状態でお家に帰れない状態だったから。
映画「ミュンヘン」においては、実際もそのようですが、イスラエル政府の特命により、工作員達(?)が、イスラエル人のオリンピック選手を殺害したアラブの首謀者を一人一人殺していくのですが、最後には、イスラエルの殺人マシーンとなることを断り、国家と決別していく。
国家と個人。民族と個人。宗教VS宗教。
個人は国家や組織の歯車であるべきだろうか?
スピルバーグの答えはNO!
エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地。取り合えば、全員が死ぬまで決着はつかない。
ユダヤ人であっても、パレスチナ人であっても、個人が特定の地域にある国土や国家というものに執着すること自体にNO!と言っているように思える。
またまた中島義道先生は偉いと思った。彼は、郷土や国への愛着を持たないらしい。出身校(東大)すらなくなっても構わないと書いていた。
JIJIちゃんは、関西に多大な郷愁を持って生きていて、組織に対しては、人にはどう思われていようが、実はかなりセンチメンタルな敬意と執着を感じてしまうタイプだけれど、もう、死ぬ時は、大阪で、吉本のギャグでも聞きながら、たこ焼きを喉に詰まらせながらがいいとか、そのような希望すら持たないでおこうと思う。
自国や組織の為に頑張る、耐える、戦うなんていうことは、人格と肉体の双方において、人殺しの始まりだから。