御正月には大阪府の実家(2件)に帰省した。主に行き帰りの新幹線の中で、岡倉点心著 『The Book of Tea(茶の本)』と三浦展著 『下流社会』をざざざぁ~と小分けして途切れ途切れに読んだ。
『茶の本』は、最初にThe Book of Teaという名前で英語で書かれたのだけれど、村岡博訳のものを読んだ。こんな東洋的な文化&詩歌(しいか)満載の本を英語で書いたのかあ、すごいなあ、と思ったので、英語版(バイリンガル版)も見てみた。バイリンガル版の方は浅野晃訳。訳者が違うと全く内容が異なる。
個人的には、村岡博訳の方が好きだなあ。とにかくオリジナルの英文よりも日本語訳の方が情報量は多い。 漢字のある国に生まれてきてよかった。英語しかわからない人って脳の一部が成長していないに違いない。(問題発言? JIJIちゃんは、きっと別の箇所がフン詰まっている。)
村岡博訳の方が順送りに(頭から)訳しているので、ストレートな感情とか主張が伝わる。英語を順送りに訳をしていくと、日本語としての自然な流れが疎外されるようなイメージがあるけれど、訳文っぽく感じなかった。語の選択が固くて良いというか、時代がかっている。英語が隣の頁に書いていないし、日本的な縦書きの『美』が文章の内容よりも先に視覚的に迫ってくるから、なんとなくそう思うのかも。
●自己的審美がイケテタ時代
芸術の鑑賞(Art appreciation)という箇所で、民本主義(民主主義)の世の中においては、主観的に自らが『美』だと思う感情ではなくて、他者の価格評価に追随するのは遺憾に堪えないとか書いてあります。高雅ではなくて高価を欲し、美しいものではなくて流行品を欲する。
●他己的・衆多的 審美のリテラシーが必須な時代
『下流社会』で印象的(かなりショック)だったのは、下流に属する人間は、自分らしさ、自己流を求める人の割合が多いという点。人から見てどのように見えるか、社会的な標準を参照して自らを律さないと下流に落ちていくというか、ある程度の没個性がいいのよね、という点に、納得する反面、やはり、納得せざるを得ない。マーケティング流行の世の中だし、客観的な評価。人がどう思うかを想像することなしの意思決定は、ビジネス的には実を結ばない。成功しないわけだろうから。
JIJIチャン的に私って下流なの(?)ガッガーン!と思ったのは、下流女は『歌って踊る』という調査結果かな。悪かったわねえ、私、暇があったら歌って踊っているの。♪2~歩あるいてコマネぇチ~♪とか♪ドスコイ・ドスコイ・ドスコイコイ!♪とかね。超下流的。良い気分転換&運動にはなりますよ。もう少しまともな歌も歌いますけど。
上流はスターバックスが好きってのは、納得できないなあ。スタバ如きのどこが美味なわけ?もっと美味しいコーヒーショップがあるじゃん、家で自分で淹れて飲んだ方が美味しいではないか?とJIJIちゃんは思いました。
昨日、天神に本と注文していたCDを買いに行き、本当に上流なのか、スタバに寄ってみました。コーヒーが美味しいとは思わないけれど、本が読みやすい環境なので、よく行くJIJIちゃんは上流人間(?)。
まわりを見渡してみると、資格試験の勉強をしている人も多く、真剣モード光線を発している人もいる。そういう人は上昇志向があるというか、意欲が充実しているわけだろうから、下流ではないよね。
下流人間は自民党とフジテレビ好きというのもありました。JIJIちゃんは、資格も刺客も興味がありませんし、自民党はどぉかなぁ~(?)って感じ。
まだらに下流でまだらに上流かもしれない私です。
上流は、高級に非ず、一流にも非ず。本物でもない。
しかし、高級、一流、本物が、必ずしも需要されないのは、いつでも同じ。今に始まったことではない。
スタバで、『東洋経済(真面目に悲観的?)』と『茶の木』と『下流社会』と『無思想の発見(養老孟司)』をカワリベンタンコにチラチラ読んでいたら、上流でも下流でも、どっちでもいいという気になる。
In the beginning , God created the heaven and the earth. それから、正確には覚えていませんが、何日か後に、神は人を神の形に似せて創った。神は存在しないかもしれない。けれど、
確かなことは、自然は人間が創ったものではない。人間そのものも。人間は神にはなれない。そう思うとJIJIちゃんは非常に安らげる。これから、ゆっくりと、政治家が向いていないという理由で突然に政界を引退してしまった久野統一郎氏の対談でも読もうと思う。人間は無理してはいけないのだ。