金曜日, 6月 10, 2005

∞Ambiguity of Abduction

本ブログ中の文章のタイトルの前には99%★・▲・●・○・◎・♪・|□|等のJIJIが勝手に決めた文章ジャンルを表す記号がついています。それらの意味は...


①★...普通の文章。日記とか目にしたものの写真とか。
②▲・●・○・◎...食に関する話題。▲(ピリカラ味)●(市販のもの/レストラン情報等)○・◎(手作りお菓子とか手抜き料理とか)
③♪...音楽とか音に関する内容。
④|□|...映画等に関する内容。

それに加えて新しい記号(ジャンル分け)を付け加えま(した)&(ます)。


⑤∞...JIJIにとっては、小難しい・理屈っぽい話題。
⑥○>...世間・社会にモノを申した~い時。 

この文章のタイトルには∞がついています。よって、この文章は⑤小難しい・理屈っぽい話題に属します。

====【前置き終り】====

∞多義的なAbduction。色々な意味を持つAbductionというコトバ。

【abduction】
①北朝鮮と日本の間のthe abduction issueであれば、拉致問題。abductionは、誘拐・拉致という意味でよく出てきます。
②生理学においては、身体の中心から外に向う運動のことであり、それを日本語では外転という(らしい)。
③仮説的推論。

【adduction】ってのもある。
上記②に対して、内転
上記③に対して、引証/例証
【abduction】というコトバを聴いた時、その意味の理解は、どのように行われるのだろうか?

文脈によって規定される意味とか、あれば視覚的な情報を手がかりにしつつ、①拉致関連なのか、②医学生理学なのか、はたまた③学問的な方法論なのかのジャンルを確定する。もしくは、北朝鮮による拉致被害者支援集会におけるトピックであれば、可能性は①のみであり、②、③については考慮されない。

しかし、事前にトピックのジャンルに関して概略的・体系的な情報や手がかりがない場合、【abduction】の/b/ と【 adduction】の/ d/の微妙な音色やタイミングや無音区間の違いを聴き分けて、/ab/内から外なのか?/ad/外から内なのか?等々を判断し、 同時に①②③のカテゴリー分類をする必要が生じるかもしれない。

実際には、医学生理学畑の人であれば、ただ単に【abduction】は外転で、【adduction】は内転である、というようにセットで覚えていて、実際のケース(症例 )毎に適確に意味を判断するのだろう。

しかし、【abduction】外転の症例のみに熟知していて、【adduction】内転の症例やコトバを知らない場合、【adduction】を聴いても、外転【abduction】だと思い込み、訳出のエラーが生じるかもしれない。

JIJIのように、その手の医学生理学の分野に関して、no ideaの素人の場合は、必ず拉致とか誘拐と間違って訳をしてしまうだろうか。

多分、なんとなくこの話は、拉致問題ではないわ!医学生理学分野の話よね!?、と察知しつつ、拉致以外の【abduction】もあるに違いないと判断して、/abdakushon/と聴覚的な印象のままを音声化し、その意味的な情報を必要としていて、当該分野の意味の違いがわかる専門家である(訳出語の)聴き手の意味の理解・判断に委ねるだろう。

【abduction】と【adduction】の聴覚的な音の印象の違いは小さくて微妙だと思われる。しかし、両者の間において、外向きか内向きかにおいて、意味は正反対である。また、拉致問題生体の運動の方向性の問題方法論の問題は、意味においても、それらのコトバが使用される専門分野という世界そのものも、隔絶されていて、接点がほとんどない

【abduction】と【adduction】の音的な近似と意味的な遠隔は面白い。Bingo!って感じだ。

【abduction】は、JIJIにとって、興味深いコトバである。

■科学的・定量的・客観性 vs 直感的・定性的・主観性

それは、③の仮説的な推論という意味において。帰納法【induction】(個別事例から一般・普遍の法則を導き出す?)⇔演繹法【deduction】(仮説をおいて検証を行う?仮説検証型思考)とは異なる(らしい)。帰納法も演繹法も勉強をしたようなしなかったような、わかったようなわからないような思考の方法ですが、双方とも客観性や再現性や分析を重視する科学的な方法論だと思う。

【abduction】を辞書に書いてあるように、仮説的推論と訳すのが適確かどうかはわからない。帰納法⇔演繹法とは異なり、主観的な判断を重視して全体を見渡すという点が、JIJI的には Bingo!(やったね!いいね!イケルカモ!)と思う。
間主観的個々の研究者等の主観の間でその結論が「正しい」と認められれば、「正しい」結論として成立する

■仮説発見型 vs 仮説検証型

/アブダクション/は、まず全体を見渡して、仮説を発見するというアプローチと言うべきかもしれない。従来の学問的な方法論は、仮説検証型であって、はじめに仮説ありき、そして、あまりにも細分化され過ぎていて全体像が見渡せなくなっているような気がしなくもない。

仮定をおくこと、偏微分的に、ある純粋な要因のみを取り出し、その他の要因の影響を実験において理論において不動にすること・無視できるようにすることも、そのある特定の要因の変化や寄与度に着目することも必要でしょうし、物理的な変化であれば、客観的に検証可能でしょう。

しかし、ヒトの行動やヒトの世の動きは、物理学や化学反応だけじゃあ説明できないんじゃないかなあ。相互のインターラクションの影響を受けずに不変で固定されているモノなんてこの世にはなさそうな気がします。

自然界の永久凍土ですら、永久に凍っていない。温暖化の影響で解け始めている。Co2が温室効果ガスであるか否かに関わりなく、何らかの温暖化の要因で、実際に永久凍土は解けてきている。

自然環境の有り様ですらも様々な要因のインターラクションの影響を受けますが、ヒトの社会においては、間主観的なインターラクションとか主観的な判断がもたらす収斂も、社会の有り様を決めているのだと思います。良かれ悪しかれ。

【abduction】という概念をひょんなきっかけで、拉致(引っ張って手に入れる)できて良かった。拉致の拉(ラ)は拉麺(ラーメンのラ)引っ張って伸ばすという意味(らしい)。
最終的に「私自身が」何らかの実りある結論に向って引っ張られ、結論に到達できますように。道は長いのだ。

明確に説明しきれていませんが、不明瞭・不正確な点は、今後つめていきたい。わかりにくい駄文ですが、ご容赦を。