金曜日, 4月 22, 2005

★Minister of Education officially Apologized to a Junior High Student

朝日新聞社『論座』2005年5月号を読んでいる。

特集 ゆとり教育の失敗等々、論文と新聞記事の中間のような詳しさで書かれている。事態一般は、暗澹(gloomy)としているのだが。郵政公社の総裁に関するルポも面白い。

元民間人と思えない(?)生田総裁の ユニバーサルサービス・地方への配慮は意外だ。時代は、ワイルドな自由競争による都市一極集中の弊害と過保護や非効率や無駄に陥りがちな全国一律ユニバーサル・サービスの狭間で揺れている。そこに雑多な利害が絡み、異なる夢が同じベット(同床異夢)でコンクラーベ(密室根競べ)を繰り広げている(だろう)。

2002年度から始まった現行の学習指導要領の教育改革、所謂ゆとり教育は、失敗であるという判断がくだされているようだ。ゆとり教育を英語でいうとどうなるか?友人に聞いた訳の一つにcramless education(詰め込みのない教育)というのがある。英辞郎をみると、relaxed style of education というのもある。ゆとりには、詰め込まないとかリラックスしたという意味の英単語しかあてはまらず、ゆとり教育によって何をするのか、内容や理念や希望は最初からなかったようだ。

本日(2005年4月22日)の日経新聞朝刊の38面の中山文部科学相が中学生に謝罪の記事には驚く。茨城大教育学部付属中学校の中三の男子生徒が『教科内容が見直されることで(ゆとり世代の)僕達の代だけ上や下の学生に劣ることになるので心配』と訴えると、中山文科省は『…皆さんには申し訳なく思う』と謝罪した、らしい。 謝罪した相手の中学生は、恐らく、どちらかと言えば勉強の良くできる生徒だろう。大学の付属中学校には低学力では入れないのだ。謝罪を要求することができない、不満をコトバにすることができない生徒が、本当の謝罪の対象だろう。

中学生に謝罪したのと同様に元大学院生にも謝れ!とか言っちゃったりして、しかし口先だけで謝って頂きましてもねえ、意味ありませんから、どうでもいいです。

学生として暗澹たる気持ちになったのは、大学教員が自らの生き残りに傾注する器の小さい・気の弱い輩に過ぎないのだと感じることが多かったからだ。(先生も人の子なんですが。生活もあるしね。)あるカリキュラムの改革に関するJIJIの問い『どうしてXXは必修でなくなったのですか?』に対して教員Aは言った。『人気のない先生を首にするためだよ。』

うわぁ~ん!うぇ~ん!情けなぁ~い!先生が、いや、私自身が。

せめて失言はやめろ!だまっとれ!性格が悪いのは良くわかった。加えて頭も悪い。アナタなんぞに二度と口を訊くものか、と煮えくりかえりつつ、全てを呑み込む。

JIJIは、てっきり留年した学生が、XXを必修にすると勉学に復帰しにくく卒業の機会をのがしやすいとか、学生が主体的に複数のXXを取り易くするためとか、学生に向けた教育的な配慮があるはずである、と心から好意的に考えていた。 (教員さんの人格に期待していたアホとしか言いようがない私。)しかし、実際は、留年した学生には旧カリキュラムを頑なに適用するし、その場合はXXは必修になる。XXが選択になって人気のない先生は首になったのか?まさしく逆選択の嵐だったのでは。

OECD加盟国間の比較がみせる日本の学力低下と日本人学生の学力格差の拡大の問題が深刻だ。成績上位グループは2000年のテストと最新の2003年のテストを比較して、目だった変化はないが、成績下位者の落ち込みが激しい。

結果として、格差が拡大しただけなのであれば、それはそれで、まだ、しかたがないかもしれないが、三浦朱門教育課程審議会会長のコメントには腹立たしく思う。

『学力低下は予測できる不安というか、覚悟して教課審をやっとりました。…(中略)…百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張って行きます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。』だとさ。エぇっ!? 確信犯なのか?

非才?無才?それはないだろう?誰がそれを決めるんだよう?そんな考えじゃあ、個々人にあるかもしれない個々の潜在能力 は開花しないよ。 また、本当に優秀な人は、そのような環境で成績上位者になったとしても、それでいいのか?と疑問に思うはずだ。子供は大人が思う以上に繊細で単純でも利己的でもないような気がする。